Editor's Museum「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

『風の耳朶』そして無言館

 先月末、「ベルサイユのばら50 ~半世紀の軌跡」という公演に行ってきました。
 “ベルばら”に特別な思いがあったわけではないのですが、かつて主要な役を演じた方たちのトークと歌のステージの出演者の中に麻実れいさんの名前があったからなのです。
 麻実れいさんを見たい――と。
 灰谷健次郎さんの『風の耳朶(みみたぶ)』(坪谷令子・絵)は2001年12月に理論社から刊行されました。
 「新刊ニュース2002 2月号」〔(株)トーハン刊〕がその作品をめぐっての灰谷さんと樹木希林さんとの対談を掲載しています。
 まず“あらすじ”です。

 がんに罹った妻ハルと夫籐三の老夫婦はそのことを誰にも言わず最後の旅行を計画した。相模湾を見下ろす丘にある籐三の幼馴染み翔太朗の家では孫の薫平少年と昔話に花を咲かせる。信州・上田の戦没画学生たちの作品が並ぶ無言館、新潟の良寛ゆかりの里とふたりは死出の旅路をつづける。死とは何か、そして生とは何か。この大きな問いかけに渾身の力で取り組んだ灰谷文学のライブストーリー。

 対談の中で灰谷さんはこんなふうに語られていました。

 これはね、ちょっとタネあかしみたいなことを言ってしまうと、私を世に出していただいたさる出版人がモデルです。(中略)戦争中からたいへんな人生を生きてこられたにもかかわらず、状況がどんなに絶望的であろうと、楽天性というものを失わなかった人です。(中略)
 こういう人たちが日本という国、社会をつくってきた。それはもう、涙も、汗も、血まで出して生きてこられた。言い換えれば、時代に魂を売らなかった人。いつも権威とは逆のところに自分の足を置いて生きてこられた。こんな人はたくさんはいないけど、いらっしゃった限り、やっぱり書いておくべきだし、今の若い世代の人にも伝えたいんですよ。重いものを背負って人生を過ごされたのに、この作品に示したように、まことに少年的な生き方をなさる。食べるもの一つにしたって、景色一つを見ても、本当に楽しむことを知っておられる。

 籐三さんと翔太朗さん、この八十五歳の老人ふたりの中に“その出版人”が投影されているのだと思いました。
 翔太朗さんの娘さんの名前が“絹枝”さんです。

 後日、『風の耳朶』が映像化されることになったらキャスティングは……という話になりました。
 灰谷さんがおっしゃいました。
 「“絹枝”さんは麻実れいさんかな」――と。
 『風の耳朶』刊行の前年、山田洋次監督の『十五才 学校Ⅳ』が公開されて、灰谷さんはそれをごらんになっています。
 出演されていた麻実れいさんが心に残っていらしたのですね。
 その時からずっと、私は麻実れいさんのファンです。

 今『風の耳朶』を読み返しています。
 283ページから15頁にわたって灰谷さんがごらんになった「無言館」が描かれています。

 もう日は落ちかけていた。
 その所為か、周りの緑は、しっとりと落ち着いた雰囲気をつくり出しているのだった。
 「いい時間帯にきたようだな」
 「そうですか。静かですね。さびしいくらいですね」
 ハルは辺りを見回していった。
 「でも、いいところに建っているわ」
 「遠くに千曲川も見渡せるし、浅間山も見える」
 「魂の、いい帰りどころですね」
 「そうだね。ハルちゃんはいいことをいう」
 「戦争で死ぬ間際、こんな景色を思い浮かべた人もたくさんいたことでしょう」
 「うん」
 と籐三はいい
 「でも、わしは生きて帰ってきた」
 と、ぽっつりと呟いた。
 ハルは
 「はい」
 とだけいった。

 「無言館」を出て、目の前に広がる塩田平の風景を一望した時、 いつも涙があふれてきます。
 “みんなこのふるさとに帰りたかったんだろうな……”。

 ひとつ、ひとつ絵を見る。
 「裸婦」がある。「家族」がある。「自画像」がある。「風景」がある。「静物」がある。
 ひび割れたものもあり、絵の具の剥落したものもあった。
 「裸婦」の中に、我が妻をデッサンしたものがあった。
 ハルは長い時間、その前に立っていた。
 その絵の前でハルが涙を拭っているのを、籐三は見ていたが、声をかけることはしなかった。
 時間をおいて、籐三は、そっとハルの後ろに立った。
 ハルは口をひらいた。
 「これは、もう絵ではありませんね」
 意外に冷静な声だった。
 「ここに描かれた方の体の温み、柔らかさや弾力、匂いまで、わたしには感じられます」
 「うん」
 籐三は無口だった。
 「これを描かれた方は、二十九歳の若さで、戦死なさっていますね」
 「うん」
 「戦場に、妻を連れていくわけにはいかないでしょう。
 この方が、これを描いたのは、自分の体の中に妻のなにもかも入れたかったからではありませんか。
 ご自分の血の中に、骨の中に……。
 そうすれば、どこへでも、いつまでも、妻を連れていけますから」
 「うん」
 籐三はかすれた声だった。

 添えられている坪谷令子さんの絵に心を打たれます。

 「こんな紙切れ一枚で……」
 ハルは辛そうにいった。
 ハルがいう紙切れには、次の文字がある。

  海軍嘱託  
  佐久間 修殿
  名誉の戦死を悼ミ謹ミテ弔意ヲ表ス
   昭和廿年三月二日
  海軍大臣 米内光政

 そして「和子の像」と題された作品の前で――

 庭の片すみだろうか、ゆかた姿の若い娘がしゃがんでいる。
 庭の植木の緑、ゆかたの柄の青、帯の薄桃、その淡い色彩が、清楚なリリシズムを生んでいる。
 「和子さんは作者の妹さんですね」
 「そうだ」
 「きっと仲がよかったんでしょうねえ」
 「そう思うかね」
 「絵に、その思いが出ているじゃありませんか」
 「その通りだね。この美術館は心を寄せる多くの人々の浄財で成ったのだが、直接それをした窪島誠一郎 さんは、著作の中で、この絵の思いを語っておる。
 絵を見ていると、どれだけ仲がよかったかわかるってね。
 兄と、その兄を慕う妹との眼に見えない心の糸のつながりをおっしゃっている。
 今の、自分たちの時代に比べて、親と子、兄弟姉妹のむすびつきは、なんとつよいものだったのだろうと。
 今は、家族で過ごす時間も、だんだん少なくなっていくし、きょうだい同士の会話も乏しいものになっているようだが、そんな時代からみて、それはなんだかすごくうらやましい時代の風景のように感じられる、というのだ」
 「ああ、そうですか。その通りですねえ」
 「和子さんは戦後ずっと、この絵と共に暮らしてこられたそうだ。
 その大事な絵を窪島さんに預けられるとき、美術館ができたら、そこに、いの一番に、この兄の絵をかざってください、そうしたら、死んでもずっとわたしは兄といっしょにいられるんですから……と、いわれたということだ」

 折しも先日、2024年6月9日付の朝日新聞「日曜に想う」は“時代を超え、思いが重なる美術館”と題して、編集委員の宮地ゆうさんが「無言館」について文章を記されていました。
 結びのことばに深く共感しています。
 そして祈っています。
 この国に新たな「無言館」ができませんように――と。

2024.6.12  荒井きぬ枝


 無言館は1997年、遺作や遺品約300点を集めて開館した。全国で巡回展が開かれ、戦争や平和を語る、象徴的な存在にもなった。
 だが、この美術館は個人的な思いの重なりであり続けている。(中略)
 学生たちもまた、「反戦平和」といった大きな言葉とは無縁に、ただ大好きなことをし続けたかっただけだったろうと、窪島さんは思う。「戦場でも絵筆を握り続けた彼らのひたむきさに、僕は打たれるんです」。そうやって生きた個々の姿が、時代を超えて人の心をとらえる。
 同じようにしていま、パレスチナウクライナでどれだけの若者が日々死んでいるだろうか。無言館は、上田の里山から、遠くの国の若者へと思いを巡らせる場所でもある。