Editor's Museum「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その514

 7月11日の朝日新聞に大きな広告が掲載されていました。

 「2027年 岩波文庫創刊100年」
新しく、あるいは久しぶりに、あるいはいつも通りに、岩波文庫とたくさん出会っていただけますように――1927年7月10日が、私たちの誕生日。
100年分の感謝をこめて、記念企画を準備中です。

 

 このミュージアムに「千曲文化クラブ蔵書」と書かれた棚があります。
 「終戦後、貸本屋のようなことを始めたんだよ」――、父はよくそう言っていました。
 「上田自由大学」を甦らせたい、と父は願ったのです。
 “千曲文化クラブ”と題された文章が残されています。 (『昭和時代落穂拾い』)

      千曲文化クラブ

 この敗戦を、どのように受けとめるべきか。その容易ならぬ課題に直面して、私のふるさとの日々は始まった。太郎山という凡中の凡なる名を冠した山との対面が、何やら禅問答めいた心の安らぎとなった。
 初めての敗戦体験であってみれば、あの中国民衆のようなしぶとさは望むべくもないが、なるべくならば一本すじの通った同胞であって欲しかった。なろうことなら、ギブ・ミイ・チョコレートの物欲しげさだけは避けて欲しいと願った。
 そんな誇りある自立的な精神が、どうしたら守り通せるか。せっかく戦争下の苦難に手探りで得た「大ヒューマニズム」を見失わずにいられるかどうか。太郎山を見上げながら胸中に呟くのは、そのことだった。
 駅前の料亭という家業は、未だ開業の見込みはなかった。もっけの幸いと、その店頭に私の長年の蔵書のすべてを並べて貸本屋を始めた。名付けて《千曲文化クラブ》である。人びとは本に飢えていた。集まる若者たちの胸には、祖国の明日の命運が去来していた。毎夜のように研究会は開かれるのであった。      (後略)

 「旭川の将校生活の収入はすべて本に変わり、私は冨貴堂書店第一の客だった」
 文章にはこのような添え書きがありました。

 岩波文庫が創刊された1927年、昭和二年です。
 父の蔵書の中にはたくさんの岩波文庫があります。
 昭和二年発刊のものがあるかしら――?
 探してみました。見つけました!

   志賀直哉 著 『和解』他

   幸田露伴 著 『風流佛』他

   倉田百三 著 『出家とその弟子』

 横書きの題字は右から左へ、奥付には作者本人の検印が押されています。
 百年前の岩波文庫です。

 若者たちに本を――そう願った父。
 「千曲文化クラブ会員名簿」なるものが残されています。
   青木正男(十九歳)上田中学(現在の上田高校)五年生
   清水孝安 市内中常田 上田繊維専門学校
   小山温  浦里村 農業
 延々と若者たちの自筆が続いています。
 女学生のものもあります。
 たくさんの若者たちが集まったのですね。

 岩波文庫が創刊100年を迎える2027年、理論社は創業80年を迎えます。
 記念事業としてこの7月、灰谷健次郎さんの『兎の眼』と『太陽の子』の復刻版が刊行されました。
 それぞれの本のオビに現代の大学生から寄せられた感想が掲載されています。

 

 『兎の眼』を読んで、
――印象的なのは、まっすぐに人と向き合う子ども、先生、保護者たちの姿だ。
――この作品は時代を超えて、胸に深く残る。

 『太陽の子』を読んで、
――優しい人ほど、つらくて苦しい。それでも本書は優しくあることの尊さを、生き生きとした登場人物を通して気づかせてくれる。

 若者と本とのめぐりあいを願い続けた父。そして今、ある一冊の本とめぐりあった現代の若者たち。なんだか心があったかくなりました。

                         2026.7.29  荒井 きぬ枝

 



 

 

 

父の言葉をいま・・・その513

 灰谷健次郎さんの『兎の眼』(1974)と『太陽の子』(1978)。
 「太陽の子」の刊行に併せて、同じ年、この二冊の文芸書版が刊行されることになりました。
 そのことについての父の文章があります。(『子どもの本をつくる』1984年エディタースクール出版部刊)

 

 今から思えば、作者も含めて私たちには、未だ何にも見えていませんでした。作者は血を流して書き、私は涙を流しながら本づくりしたにもかかわらず、『兎の眼』のひそめている「感動」の重さを、自分たちだけで測っていたのでした。けれども、出版して第一年度に七千部ほどしか売れなかったこの本が、翌年は一万五千部も売れていました。更にその翌年は二万五千部以上が売れたでしょうか。通算して五万部以上が売れた段階で、私たちは、自分たちが測っていたよりははるかに大きな感動の輪がひろがっていることに気づいたのです。とりわけ子どもたちだけではなく、若者たちが、母親たちが、おとしよりが……じつに熱い感動を寄せてくれているではありませんか。よし、それならば更に安く、更に大人向けに、普及版も作ろうではないか。……今となっては珍しくもないことですが、私たちは一つの作品を、同時に子ども向けと大人向けとの二様の本づくりで普及することに踏み切ったのです。


 両書に寄せられた読書カードは15,000通を越えました。それをふまえて、愛読者文集の企画がもたらされたのです。
 “あなたの声で本を作ろう!”――、そう呼びかけた新聞広告が残っています。父が書いた文章です。(1980年4月30日付 毎日新聞)

 

 灰谷健次郎 名作のロングセラー 『兎の眼』『太陽の子』

 この涙は、感動は、何でしょうか?
 〈兎の眼〉のやさしさにめぐりあい、
 〈太陽の子〉の思いやりに打たれて、
 父母たちは真底から心をゆさぶられ、
 教師たちは鮮烈に自分を問いなおし、
 若者たちは人生の重みに開眼する・・・・
 そんなにも熱い涙の渦のなかから、
 いま同胞たちの語りあいたい思いが、
 大切なものの欠落に抵抗する情念が、
 迸しろうとしているのでしょうか。
 読者が読者を呼んでひろまってきた
 感動の輪は、「いま希望とは?」と
 切実な問いに結晶しつつある・・・・・
 生まれるべくして生まれた作品です。

 前進座による〈太陽の子〉は、
 嵐の拍手で迎えられました。
 浦山桐郎監督による大作映画
 〈太陽の子〉も、不朽の名作
 〈キューポラのある街〉を越える
 青春映画となるでしょう。
 どうやら八十年代日本の明るい活力は、
 〈兎の眼〉と〈太陽の子〉を踏まえ、
 やさしさと思いやりをたたえながら、
 挫折も絶望も肯んじない足どりで・・・・・
 仄みえて来つつあるようです。
 この一点を信じたい。
 この盛り上がりの底に、
 現代の生き方を、考え方を、
 探求したい───と、読者のつどいも
 めざましく広まっているのです。

 

 7月3日から吉祥寺のギャラリーで行われている「ハートの展覧会」。
 7月11日には、作品を展示されているはらだたけひでさんのトークイベントがありました。
 「はらだたけひでが語る放浪の画家ニコ・ピロスマニ」。
 お知らせをいただいて、妹とともに駆けつけることにしました。

 「うかがいますね」とお伝えすると、
 「きぬ枝さんも少しお話ししてくださいね」とはらださん。
 「量平先生とピロスマニについて」――と。

 はらださんは岩波ホールの企画を担当されていて、ジョージア(グルジア)映画の上映にも尽力された方です。
 何よりジョージアを、ピロスマニを愛されています。
 映画「ピロスマニ」上映の際には、はらださんの依頼で、父はパンフレットに文章を書かせていただきました。

 1966年、作家同盟からの招待で、父は初めてソ連を訪問。
 日程の最後にひとりジョージアへ向かったのです。

 
 いつしか私の心には、かの偉大な権力や体制の築き上げた重石にはなじめない、もう一つのロシア的な魂の伝統が住みついたようです。その魂に、ひっそりと安らぎを与えるかのように、私を迎えてくれたのがピロスマニの作品群です。

 その第一室に入ったとたん、私が直感したのは、多くの名匠による多くの名画たちが、いつしか詩い奏でることを忘れた今、まぎれもなく自由に放浪する魂の呟きが、ここにはある!――という悦びと安らぎでした。


 こうして父はピロスマニと出会いました。
 以来、ピロスマニをこよなく愛し続けていた父は、文芸書版となった『兎の眼』の表紙カバーにピロスマニの「小鹿のいる風景」を使ったのです。
 動物の眼がこんなにも澄んでいて、こんなにも美しいなんて!
 父はその小鹿の眼と兎の眼とを重ねたのですね。
 はらださんはご自身の著書「ピロスマニ」(2014年集英社刊)の中にこう記されています。

小宮山量平氏は生き物に注ぐピロスマニの優しい光に、「慈光」という言葉を使っていた。

 「慈しむ光」。
 ピロスマニは多くの動物を描きました。
 慈しむ光、慈しむ心が描いた動物たちの“眼”です。
 父はその眼を『兎の眼』の表紙カバーにしたかったのですね。
 トークイベントで、そのことをお話しさせていただきました。

 2015年にはらださんは「私の大学」の講座に来てくださいました。
 講演の最後のはらださんの問いかけが心に残っています。

人の善意を信じ自由に生きたピロスマニ。
今の日本にピロスマニのいる場所はあるだろうか?

2026.7.16  荒井きぬ枝

 

父の言葉をいま・・・その512

 2016年7月7日、10年前の七夕の日に永六輔さんは旅立たれました。
 一年に一度の再会が許されるという伝説の日。
 「きっと今頃、母と会っていると思います」――。
 新聞紙上にあった次女真理さんの言葉が忘れられません。

 永さんが初めて上田で講演してくださった日のことを思い出しています。
 永さんは長いこと「上田が嫌いです」と公言されていました。
 1996年8月の終り、神戸で永さんとお会いすることになっていた私に、父はある伝言を託しました。
 「永さん、そろそろ上田と仲直りしませんか」――と。
 2か月後、上田での講演会が実現したのです。
 父の文章が残っています。(『20世紀人のこころ』2001年週刊上田新聞社刊)


   永さんは一遍上人か

 (前略)
 永さんが、思いがけなく気楽に上田へ出向いてくれることとなった。私を囲んで「いのち」について語る小さな集いで、場所も梅花幼稚園を利用させていただくボランティアに支えられた懇談会にすぎない。が、さすがに永さんともなると定員の三倍以上もの熱心な聴講希望者であった。
 何とか三百数十名を寿司詰めにした集いであったのだけれど、その人びとがその夜はまぎれもなく酔ったように笑った、涙ぐんだ。この上田で、あんな笑いが生まれた夜が、かつてあったろうか。単なる話術の巧拙ではない。怨念の体験を踏まえた永さんが、その怨念を一気に吹きとばすような熱気ではないか。私はふと世直しの行く末を見据えながら、その道を衆生のともがらと打ちつれて、舞いつつ踊りつつ楽し楽しと進んだ一遍上人を思った。


 そして永さんはこんなふうに――。(『あの町この人その言葉』1997年朝日新聞社刊)

 

  小宮山量平さんと上田で

理論社をつくり、出版の良心とも、
児童文学の育ての親とも。
その小宮山さんの故郷が信州上田。
僕が学童疎開以来、
上田を避けているという噂を、
小宮山さんとのトークショーで、
確かめてみたいと、
梅花幼稚園いっぱいの市民集会。
タイトルが凄い。
「僕は上田が大嫌いだった」
優しい小宮山さんにかえって緊張。
「上田は思い出したくない記憶に溢れている町です。
でも五十年たったことですし、上田の町が嫌いというより、
戦争という時代が嫌いだということで……。
これを機会に、上田にも寄せていただきます」
戦後五十一年目で講和条約。
小宮山さん、ありがとう。


 それから毎年、永さんは父を訪ねて上田へ来てくださいました。
 2006年に亡くなられた灰谷健次郎さんの思い出を父と語り、父が亡くなってからは、灰谷さんと父の想いを語り継いでくださいました。

 “永六輔さんをしのぶ”と題された放送作家の石井彰さんの文章です。(2016年7月21日「しんぶん赤旗」)

 

憲法の大切さ語って

 七夕の日に亡くなられた永六輔さんは、誰よりも戦争に反対し、憲法を守ることの大切さを、ラジオや小さな集まりで語り続けた。
 若者に人気の深夜放送「パック・イン・ミュージック」(TBSラジオ)では番組全部を使って、憲法前文から第百三条まですべて朗読したほどだ。
 そして九条だけでなく、九十九条「天皇又は摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」の意義を、力説してきた。憲法を擁護せず、むしろ壊そうとする国会議員が、今なんと多いことか。(後略)

 7月13日付の同紙は“潮流”でこう記していました。

(前略)つねに権力の反対側で平和を脅かす風潮を批判してきました。イラクに自衛隊を派遣した際には「憲法をどう理解し、どう曲解すれば武器を持つ日本の軍隊が海外に行っていいことになるのだろう」▼憲法施行60年のときには本紙で「ぼくは99条の会」だと。この条文は、国会議員や公務員は憲法を守らねばならないという立憲主義の原則をうたったもの。それが破られようとしているいま、永さんなら何を発信したでしょうか。

 

 永さん、今この国の惨状(あえてそう言いたい)、
 どこかで見てらっしゃいますか?
 権力がやりたい放題!
 永さん、何かおっしゃってくださいっ!

2026.7.10 荒井きぬ枝

「若菜館」の新築祝いにも来てくださいました。

父の言葉をいま・・・その511

 「圧巻」という言葉を使うことはあまりないのですが、読むたびに「圧巻だっ!」と思わずにはいられない文章があります。灰谷健次郎さんの『太陽の子』(1978年理論社刊)。
 沖縄差別に怒って暴力事件を引き起こしたキヨシ少年を取り調べようとする警察官に向って、片腕のないろくさんが語りかける場面です。
 ガマ(洞穴)に隠れているとき、赤ん坊の泣き声が米軍に聞こえると全滅だと日本兵に命じられて、ろくさんは我が子を絞め殺し、片腕を手榴弾で失いました。


 「この手を見なさい。よく見なさい」
 ろくさんは上着をとり、寒いのにシャツまではいだ。浅黒い皮膚が出て、その胴には手が一本しかついてなかった。
 ろくさんは見えない左手を突き出した。ほとんど根元からその手はなかった。十分な手当てが受けられなかったのか傷口がいびつだった。
 「手榴弾でふっとばされた」
 ろくさんはいくらかたじろいでいる男たちの前でいった。
 「敵の手榴弾ではない。わしはただの大工で兵隊ではなかった。沖縄を守りにきてくれていた兵隊が、わしたちに死ねといった。名誉のため死ねといって手榴弾をくれた。国のためテンノウヘイカのため死ねと彼らはいった。わたしたちはみんなかたまってその真ん中で手榴弾の信管を抜いた」

 「ええか、この手をよく見なさい。見えないこの手をよく見なさい。この手でわしは生まれたばかりの吾が子を殺した。赤ん坊の泣き声が敵にもれたら全滅だ、おまえの子どもを始末しなさい、それがみんなのためだ、国のためだ――わしたちを守りにきた兵隊がいったんだ。沖縄の子どもたちを守りにきた兵隊がそういったんだ。みんな死んで、その兵隊が生き残った。……この手をよく見なさい。この手はもうないのに、この手はいつまでもいつまでもわしを打つ」

 

 2011年1月4日付の「神戸新聞」。
 灰谷さんに関する特集記事の最終回です。
 灰谷さんをテーマにした卒論を書くためにはるばる沖縄からこのミュージアムへ来てくださった琉球大4年生の井集美由紀さんを取材していました。

 

   太陽の子
   「読めば沖縄の思い分かる」

 井集さんは母(52)から「『太陽の子』を読んでないと、沖縄県民じゃないよ」と教えられた。母の年ごろの沖縄の人は、必ず「太陽の子」を手にしていたという。
井集さん自身は、高校生の時に「太陽の子」と出会った。

井集さんは、生まれ育った沖縄の歴史の傷を背負って苦しむ人たちの存在を思い知らされた。
 米軍基地問題で揺れる沖縄。県外の人たちの反応に、温度差を感じることがある。そのとき、「『太陽の子』を読めば、沖縄の人たちの思いが理解できるのに」と思う。


 “沖縄の歴史の傷を背負って今も苦しんでいる人々”。
 その存在に気付きもしない、いえ、気付こうともしない人がこの国の首相だということを思い知らされました。
 6月23日、「沖縄慰霊の日」のあの白々しいあいさつ!

 6月28日付「朝日新聞」、“日曜に想う”。

 

 瞳の力に思わずたじろいだ。沖縄の全戦没者追悼式で、中学2年の亀谷流奈さんが平和を願う詩を朗読した。地上戦を体験した曽祖母の言葉を静かに聞き、受け止め、葛藤し、「自らの経験」とするまで咀嚼した跡を映す、覚悟の宿る目だった。
 続く高市首相の挨拶の最中「戦争反対」と叫ぶ声が響いた。私がしゃべっていたのではっきり聞こえなかったと首相は記者団に言った。言葉を受け止める人と、言葉から逃げる人。光と影ほど対照的に見えた。
 (中略)
 いつの時代だって政治家のやるべきことは、対話と知力を尽くし、戦争をもたらしかねない全ての芽を摘むことのはずだ。


 あいさつの間、首相に向けられた参加者からのヤジは「戦争やめろ」「9条守れ」といったものでした。
 そのことについて、首相は「いま、日本は戦争をやっておりません」とコメントしたそうですね。
 向き合おうとせず、こうしていつも逃げてしまうのですね。

 『太陽の子』(初版)の“あとがき”です。

 

 (前略)
 今の日本を見ていると悲しくなります。日本という国の為に、命を捨てていった数十万、数百万の人々は、どのような涙を流せばいいのでしょうか。
 死せる人々に応え得るような『生』が、今の日本にないとしたならば、この日本という国は、いったい何なのでしょうか。
 (後略)


 ろくさんのあの「圧巻」の場面を私は生涯忘れません。
 灰谷さんが“あとがき”に込めた思いを、今かみしめています。

2026.7.2  荒井きぬ枝