Editor's Museum「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その286

 「“終戦”ではなく“敗戦”だよ」───。
 父はいつもそう言ってました。
 敗戦から76年目の8月15日を迎えようとしています。
 『昭和時代落穂拾い』(1994年週刊上田新聞社刊)に父は以下のように記しています。


ほんとうだろうか

 1945年8月15日。その日、日本列島は北から南まで晴れ渡り、炎天下に蝉の声がかまびすしかったと、異口同音に語り、記されている。
 そう語り書く識者の多くは、窓の暗幕を外し、電燈の覆いを捨て去ったその夜を「ああ、何と明るかったことか!」と、ため息のように語り伝える。さぞかし、ほっとしたことであろう。解放感も深かったに違いない。歓喜があり、歓声もあげたかったろう。
 けれどその日が「平和の訪れ」として、歴史のアルバムに収められてゆく世のありさまを眺めて、私は「ほんとうだろうか?」と、つい呟いてしまう。
 格別にすねた思いで語るわけではないが、とかく一夜にして明るい日への転換が行われたかのような神話が横行するのにつれて、私の心には疼きが深まる。
 私の心に今も生きつづけている「あの人たち」の声ごえが深々と甦るのである。むろん、その日の前後に皇居前広場自死を決行した人びとのことを言うのではない。
 直後に割腹自死を遂げた阿南中将のような方のことでもない。
 とりわけ「あの人たち」こそは、一段と重い心であの日を受けとめたに違いない。この敗戦を、どう迎えたらよいのか。この日を迎えることもなく散華したあの友この友を、どう悼んだらいいのか。これからの一日一日を、彼らの思いをもこめて、どう生きたらいいのか。その魂魄は、生ある限り「あの人たち」の心には生きつづけるのだろう。
 後日、私がNHKラジオの《人生案内》に最初に登場したときだ。思わずも私の口を衝いて出たのは、「八・一五以来の日々は私にとっては余生なのです」というコトバであった。以来、その思いが消え去ったことは一日もない。そして戦後を見たり考えたりするどんな歴史の断片にも、散華した友たちの凝視は生きつづけている。


 「あいつらのぶんを生きる」
 「あいつらにはずかしくないように生きる」
 何度も私の心の中でくり返されてきた父の言葉が、今また甦ってきます。

 “荒井民平”のペンネームで季刊『理論』創刊号(1947年)に、父自身が執筆した長編小説「敗戦」の一部、「楯に乗って」。
 GHQ(*)の検閲によって削除されたその全文が父の死後発見されたことを、2012年8月15日の「信濃毎日新聞」が伝えています。
  (*)GHQは連合国軍最高司令部。進駐軍とも言われた。(1945~1952)


 (前略)
 原稿は、物資不足などを考えずに陣地設営を命令した軍上層部への批判や、厳しい条件下で任務に汗を流す部下への共感などを描写。戦争反対を訴えた上の世代が挫折し、自分たちがいや応なく戦争に加わった思いから、次世代の若者に向けて「『自分で歩め!』 ─そう、いいたい」と促す場面もある。  (後略)


 そして、何故削除されたかについて、記事はこう結ばれていました。そして、私の感想も・・・・・。

 (前略)
 小宮山さんが創業した理論社で共に働き、親交が深かった深町稔さん(70)=上田市上田 は「GHQは、日本人が従順な方が戦後の占領政策を進めやすいと考え、作品を検閲したのではないか」と指摘。
 荒井さんは「今回の原稿には若者への温かい視線もあり、児童文学に力を注いだ父の出版活動の原点がある気がする」と話している。


 自身の作品を削除された無念さが、父を“戦後創作児童文学”の出版へと向かわせたのだと思っています。
 そして、『千曲川』という大長編小説の執筆へと・・・・・。

 『千曲川』第四部の最後を父は以下のような文章でしめくくっていました。


 (前略)
 思えばこの四半世紀の間に、私はひたすらに《創作児童文学》という旗印をかかげ、何時の日か、日本の明日の世代が、先ずは美しい日本語を心の鍵とする知恵を身につけ、成ろうことなら「自分の脚で立ち、自分の頭で考える」という自律的精神の輝きを示す日の到来を願いつづけてきました。
 もしかすると、そんな日を迎えるためには、今後なお幾世代の精進が積み重ねられることが求められるのかも知れません。この一編も、それらの礎石の一つのつもりです。


 自分の脚で立つことも、自分の頭で考えることもできないリーダーを持ってしまったこの国。
 「お父さん、どうしよう?」───。

   2021.8.11  荒井 きぬ枝


復興のシンボルとされた広島の「市の花」、夾竹桃
父が植えてほしいと願っていた花です。
今年は5メートルほどの高さになったでしょうか。
むこうに千曲川の流れが見えます。