Editor's Museum「小宮山量平の編集室」

日々のできごとと思いを伝えます。

父の言葉をいま・・・その172

 父の最期に寄り添いながら、父の“ことば”を聞きもらしてはいけないと、夢中でエンピツを走らせた原稿用紙が残っています。
 亡くなる前日、私はこんなふうに書きとめていました。

  みなさん、ご苦労さま  (3:15)
  たのしかった たのしかった  (3:24)
  おやすみ おやすみ
  おもしろかったね、おやすみ おやすみ (3:31)


 最後の最後に、父はこう言い遺したのです。

 その数日前、書きとめなければというような切羽詰まった状況ではなかった時に父が言った“ひとこと”は、私の心の中に残っています。
 一番大切なのは、『きりん』だからね───
 子どもたちの自立的精神を育てたいと願い、創作児童文学の道を切り拓いてきた父にとって、児童詩誌「きりん」は原点ともいえるものでした。
 「きりん」について記した父の文章を見つけました。
 2003年に発売されたCD「きりんのなみだ」。
 八千草薫さんが「きりん」の詩を朗読されています。
 そのジャケットに添えられた父の文章です。

2019.3.27  荒井 きぬ枝


《きりん》よ、よみがえれ

 大正七(1917)年に鈴木三重吉が創刊した子どもの雑誌《赤い鳥》は、まぎれもなく大正デモクラシー時代を表徴するヒューマニズムの申し子でした。
 太平洋戦争の直後には、そんな雑誌の伝統を継ごうと多くの子ども向け雑誌が誕生しましたが、中でも関西を拠点にして生まれた《きりん》こそは、まことにユニークな特色を示しておりました。
 関西詩壇を代表する竹中郁先生を中心に、大阪毎日新聞井上靖朝日新聞の坂本遼/夕刊大阪の足立巻一など、秀でた詩人であり学芸部記者でもあった仲間たちが集まって、「日本童詩研究会」を結成し、子どもたちの詩や作文中心の雑誌を発行したのでした。
 そんな編集ぶりが教育現場の教師の魂を揺さぶったのでしょうか。広く全国の小中学校から多くの詩集や文集が寄せられるようになり、中には灰谷健次郎先生のようにずばぬけて面白い学級づくりの記録を毎号送りつづける教師も現れました。
 こうした全国的な熱気に支えられてか、《赤い鳥》を承け継ぐはずの諸雑誌が相次いで姿を消したにもかかわらず、《きりん》は不死鳥のように生き永らえて日本一の童詩雑誌に成長したのでした。
 けれど60年代に入ると、かの「勤務評定」のような教育現場の締め付けが始まり、次いで70年代には「学力偏差値」による子どもと家庭への重圧も加わるのでした。
 そしていつしか《きりん》に満ち満ちていた子どもと教師との祭りの集いのような愉しさは途絶えました。
 ある時期から出版人として《きりん》を支えつづけることとなった私も、かんじんの教育現場からの声ごえが細るのにつれて、遂にこの雑誌を廃刊しなければならなかったのです。
 けれども、あの子どもたちの祭り歌にも似たさんざめきは何とかして後世に伝えたいものと、工夫せずにはいられませんでした。
 幸いにしてその一つが灰谷先生の『せんせいけらいになれ』として遺りました。
 先生の教師生活17年が生んだ稀なる「子ども語録」であると同時に、《きりん》の最盛期を反映する宝物となっています。もう一つは鹿島和夫先生の『一年一組先生あのね』です。それは《きりん》の廃刊後にも、その輝かしい伝統を見失うまいと歩みつづけた一教師が不屈に刻みつけた地の塩のような結晶です。
 八千草薫さんによる《きりん》の詩の再生は、これらの作品集が中心となるのでしょうが、レクイエムではなく、今こそ《きりん》精神復活への頌歌となることでしょう。


講演会で「きりん」の詩を朗読する父(1996年上田梅花幼稚園)